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天龍寺七福神 恵比寿天堂

 

行事・2月3日節分祭

日本の禅の祖である栄西禅師は、 800年前に中国へ渡られ、無事帰国された記念に交通安全の神としてお祭りになられました。当院に安置の恵比寿様は西宮戎神社よりの分神です。救苦除災・福授開運の神として昔から信仰されております。

2月3日節分祭は総門前、法堂前にて福笹を受け、山内塔頭の七福神のお札を受けて巡る行事です。ご参拝の皆様が福を授かっていただき、幸福で健康な生活をなさるようにと願っております。
 

夢地蔵尊

 
人間界は全てが夢の如しとお釈迦様は金剛経の中でお話になっています。人間としてこの世に出生し、生きている限りは希望の夢をしっかり持ち続けて欲しい、又、その夢を抱いて毎日勇気を出して生きていただきたいとの発願で夢窓国師の御名の一字「夢」をいただいて、19世國友憲道住職が建立いたしました。

正しい夢を持って人生の苦難を乗り越えて行く人々に必ずや、救いと導きの手を差し伸べ、夢を叶えてくださることを信じ、ここに由来申し上げますと 1990年8月吉日に前住職は記されておられます。
 
 
 
 
 
 

起雲軒

 
 

2015年完成の新書院です

 
瑞巌寺吉田道彦老師に命名と題額の書を揮毫していただきました。
 
 
 

庫裏・本堂

拝観はお断り申し上げております。

 
大正期、山口玄洞氏によって再興されました。本堂ご本尊様には、平櫛田中翁作 十一面観音像が安置されております。

 

 
 
平櫛田中翁

(ひらくしでんちゅう)について
明治5年、岡山県井原市に生まれる。明治26年22才で木彫を志し、昭和54年108才で逝去されるまで、木彫一筋を貫いた方です。亡くなられた時、東京小平のご自宅には、まだ数十年、木彫を続けられる材料が残されておりました。座右の銘は「今やらねばいつできる、わしがやらねば誰がやる」と、誠実に一つを貫くことこそが、一番大切な事だと語っておられました。そんな平櫛田中翁 に創られた十一面観音像ですから、お顔を見ておりますと思わず、微笑んでしまいます。その微笑みこそが、万能の良薬、長寿の秘訣となると信じております。
ふくよかなお顔には
観音の慈悲の心が宿っておられます。
 
 

 


水野家の菩提寺としての歴史

水野堅物守次公

水野堅物守次公は織田信長の摩下として桶狭間の戰いに初陣。その後、数々の武勲をたて常滑城3代目城主となりました。本能寺の変に際し、明智光秀に味方認め城を落去。豊臣方の追及を避けて永明院中興の第6世三章令彰(慶長20年<1615>3月22日示寂)を頼って、堅物入道として隠棲。
堅物入道は常滑において、常滑焼を奨励、普及させたことからわかるように連歌や茶道をたしなむ文化人で京の地にあっても、千利休、津田宗九らと親交を結び、常滑焼を茶人に紹介しました。しかし、明智残党として豊臣方に追及され、北野の大茶会にて見つかり、慶長3年<1615>4月21日京都において自害して果てました。法名『祥光院殿雲室全慶大禅定門』

水野河内守守信公

そして豊臣政権が滅び、徳川の治世になると徳川家康から破格の信頼を受けた堅物公の息子である水野河内守守信公は自身の父の名誉を回復するため、常滑城に帰参かなわず、嵯峨の地にて果てた父のため、生前に繋がりのあった京都嵐山天龍寺永明院を再興、中興開創となりました。寛永13年<1636>12月22日示寂。

江戸時代後期、元治の兵火、蛤御門の変<1864>に遭い、永明院は 衰退しましたが、その後、大正から昭和にかけて多くの寺院仏閣を再興された山口玄洞居士が大寄進され、15世黙宗立規禅師の代に永明会を設立して再興されました。しかしながら院内の水野家墓所はその当時はまだ歴史の闇に沈んだままだったのです。
昭和62年<1987>7月、先住19世住職、國友憲道和尚の時、常滑市の郷土史家から水野家墓所の照会があり、当時の田中康彦氏(京を語る会会長)や久保仁平氏(歴史考古学史跡美術同好会副会長)に墓所調査の協力を要請。過去帳や常滑水野家の系図を調べると共に、院内にある一族の墓所と伝えられる宝塔六基の碑面を拓本に取り、消えかけた院号戒名を解読しました。
墓石群の左から二基目の一番小さな宝塔が、堅物公のものとわかり、他の五基も昭和に建てられた一基を除き、水野河内守守信公をはじめご一族のものと判明しました。
永明院の家紋は水野家と同じ「丸に立ち沢瀉(おもだか)」