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釈宗演老師の足跡

2022.1.11

 
時は明治になる少し前、アメリカ、ロシア、イギリスなどの黒船が来航し日本に開国を迫ります。日本では夷敵を打ち払えという攘夷運動が激化する中、270年続いた徳川幕府は、天皇に大政を奉還し一家臣として存続しようとしましたが、徳川幕府を敵とみなす薩摩、長州、土佐などによって鳥羽、伏見の戦いから始まった、戊申の役が起こり、薩長土肥連合軍が徳川幕府軍を打ち破り、元号は明治となりました。
江戸時代には、各町村は寺の台帳によって管理され、人口や年貢はこれによって統制されておりましたが、天皇を頂点とする明治となり、日本は神国という事で神社を大切にし、寺を粗略に扱う廃仏毀釈が起こり、全国で仏像や寺を破壊したり、燃やしたりしました。そんな環境の中でも大いなる志を持った僧侶がたくさん現れます。
臨済宗においても、若狭の国で釈宗演老師がお生まれになりました。 

釈宗演老師の足跡
安政6年  若狭高浜に生まれる
慶応2年  若狭 長福寺にて印宗より読み書きを習う(7歳)
明治3年  妙心寺派管長 越渓につき得度(10歳) 

明治が目前に迫り、徳川の世が終わろうとしておりました。若狭の国にまだ砲声は、鳴り響いてはいませんでしたが、京都から丹波、丹後、但馬の国、山陰道には錦の御旗を打ち立てた薩長軍が進軍し、山陰はすべて薩長軍の軍門に下りました。慶応4年に出された太政官符「神仏分離令」から始まった廃仏毀釈は、一番厳しかった薩摩藩では、1,000-以上あったすべての寺を廃して、2,800人以上いた僧侶も還俗させました。日本国中のお寺が何らかの形で被害を受け、明治10年にはほぼ収まりました。そういった激動の中、釈宗演老師は文字を習い、明治3年には得度して仏門に入ります。明治10年には目を海外に向けようとして、征韓論を起案した西郷隆盛を総大将として、九州において不満士族が決起し西南戦争が起こり、出来たばかりの明治政府は分裂します。 
この翌年、釈宗演老師は鎌倉円覚寺に移り、今北洪川管長のもと、本格的な禅の修行を始め、明治16年、今北洪川管長より印可を受けます。

明治11年  円覚寺派管長 今北洪川老師につき修行を始める(18歳)
明治16年  円覚寺派管長 今北洪川老師より印可を受ける(23歳)
明治18年  東京 慶應義塾大学に入学(25歳)

この年、外務卿井上馨の欧化政策の一環として、鹿鳴館が完成しました。日本は、外国の要人を招待して鹿鳴館外交を展開します。それによって治外法権の撤廃を求めて、不平等条約の改定を進めましたが、明治20年に外交の失敗から井上馨は失脚し、わずか4年で鹿鳴館の使用頻度は減り、明治2年には華族会館として復活します。釈宗演老師は、明治20年から25年に掛けてスリランカ、インド、中国と仏教の原典を求めて旅をしております。
スリランカ、インドにおいてはパーリ語を学び、上座仏教の僧侶となり、お釈迦様のつくられた仏教の原典を学びました。そして中国においては大乗仏教における鳩摩羅什、玄奘三蔵などの漢訳された仏教原典を学びました。

明治20年~25年 スリランカ、インドでは上座仏教の仏教原典をパーリ語で学び、中国では中国語で仏教原典を学ぶ(27歳~32歳)
明治25年  今北洪川老師の逝去後、円覚寺派管長に就任(32歳)

 明治25年に帰国、同年今北洪川管長の遷化により、円覚寺派管長に就任しました。翌26年、アメリカ合衆国シカゴにおいて、万国博覧会と共に開催された万国宗教会議に、日本の代表団を派遣する事となり、福沢諭吉の後押しもあり、釈宗演老師が団長に選ばれ、シカゴに向います。
その時、2回の演説を行っていますが、第一回目の「仏教の要旨ならびに因果法」は、広くアメリカ人にも感銘を与え、宗教学者・哲学者のポール・ケーラスは、釈宗演老師帰国後に英語の堪能なものを、是非アメリカに派遣してほしいと依頼、その時居士であった鈴木大拙氏がアメリカに渡る事になり、以降アメリカやヨーロッパに日本の禅が浸透していく事になります。 

明治26年  シカゴ万国宗教者会議出席(33歳)
      数年後、鈴木大拙博士渡米、禅の書籍を英語出版、アメリカや
ヨーロッパに禅の教えを広める
明治36年  建長寺派管長兼任(43歳)

明治36年、建長寺派管長も兼任する事となります。明治37年、日露戦争勃発、建長寺派管長の役職のまま、従軍布教師として第一師団に随行。明治38年には円覚寺、建長寺派の管長職を辞し、同年6月にラッセル夫人の要請もあり、鈴木大拙氏を通訳として再度渡米する事となります。
サンフランシスコ、ラッセル邸にて9か月間滞在。明治39年には首都でルーズベルト大統領とも会談をするなどし、ヨーロッパ、アジアなども歴訪同年8月に帰国しました。

明治38年  両管長職辞任、再渡米、サンフランシスコに滞在(45歳)
明治39年  ワシントンにおいてルーズベルト大統領と会見、
ヨーロッパ、アジアを歴訪して帰国(46歳)
明治44年  朝鮮巡錫
明治45年・大正元年  満州巡錫
大正2年  台湾巡錫
大正3年  花園学院長・臨済宗大学長(54歳)
大正5年  円覚寺派管長再任(56歳)
大正6年  中国に渡航(57歳)
大正8年  逝去(59歳・満61歳)

明治44年朝鮮巡錫、明治45年・大正元年満州巡錫。大正2年台湾巡錫。
大正3年臨済宗大学、第二代学長に就任、大正6年まで務める。大正5年、円覚寺派管長に再任、管長職のみ引き受け、弟子の夏目漱石の葬儀などを行いました。大正6年、3ヶ月間中国を巡錫。大正8年肺炎の為、遷化。
 
59歳、満61歳という若さで亡くなっております。太く短くという言葉が当てはまるかどうかは分かりませんが、まだ飛行機での旅行が一般的では、なかった時代に、世界を2度にわたって駈け巡り、アメリカ大統領をはじめスリランカ、インドにおいて、上座仏教の修行をパーリ語で行い、朝鮮、満州、台湾、中国における巡錫などは、大乗仏教の中の禅というものを「ZEN」として、世界中に普及させていった先駆者である事は、まぎれもない事実です。
今ではアメリカ、欧州には、そんな仏教徒(Night Stand Buddhist)が300万人いると言われている程です。そんな釈宗演老師出来る事ならもっと長生きしていただいて、世界にむけて禅を発信し続けてほしかったと願うのは私だけでしょうか。