常滑水野家の菩提寺として






mizunoke2.jpg水野監物守次(守隆)は織田信長の摩下として桶狭間の戦いに初陣。その後、数々の武勲をたて常滑城三代目城主となりました。「本能寺の変」に際し、明智光秀に味方したため城を落去。豊臣方の追及をさけて永明院中興の第六世三章令彰(慶長二十年(1615)三月二十二日示寂)を頼って、監物入道として隠棲しました。
監物入道は、常滑において、常滑焼を奨励、普及させたことからわかるように、連歌や茶道をたしなむ文化人で、京の地にあっても、千利休、津田宗九らと親交を結び、常滑焼を茶人らに紹介しました。しかし、明智残党として、豊臣方に追求され、北野の大茶会にて見つかり、慶長三年(1598)四月二十一日、京都において自害して果てました。法名「祥光院殿雲室全慶大禅定門」
そして、豊臣政権が滅び、徳川の治世になると、徳川家康から破格の信頼を受けた監物公の息子である水野河内守守信公は、自身の父の名誉を回復するため、そして常滑城に帰参かなわず嵯峨の地にて果てた父の為、生前、繋がりがあった京都、嵐山天龍寺、永明院を再興、中興開創となりました。寛永十三年(1636)十二月二十二日示寂。

江戸時代後期、元治の兵火(蛤御門の変(1864)に遭い、永明院は衰退しました。大正、昭和とたくさんの寺院、仏閣を再興された山口玄洞居士が大寄進。当院、十五世黙宗立規禅師の代に永明会を設立して再興されました。
しかし、院内の水野家墓所は、歴史の闇に沈んでおりました。

昭和62年(1987)7月、十九世住職、国友憲道師のとき、常滑市の郷土史家から水野家の墓所の照会があり、当時の 田中泰彦、京を語る会会長や久保仁平・歴史考古学史跡美術同好会副会長に、墓所調査に協力を要請し、永明院過去帳や常滑水野家の系図を調べると共に、院内にある水野一族の墓所と伝えられる宝塔六基の墓石の碑面を拓本にとり、消えかけた院号戒名を解読。
mizunoke1.jpgmizunoke3.jpg墓石群の左から二基目の一番小さな宝塔が、監物公のものとわかり、他の五基も昭和に建てられた一基を除き、慶長五年(1600)徳川家康に従い上杉征伐に戦功をたてその後お使番、長崎奉行、大阪町奉行、堺奉行などや大目付を歴任した幕府の重鎮である水野河内守守信公をはじめ、一族のものと判明しました。
2.gif永明院の家紋は水野家と同じ「丸に立ち沢瀉(おもだか)」